日曜日, 3月 25, 2007

北海道・時計まわり10

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。



 芦別岳に登った日の夕方、利尻で出会って以来連絡を取り合っていたSちゃんがやって来ました。普段はユースホステルに泊まっているSちゃんに、何でもありのキャンプ料理を振舞い、利尻で別れてからの話を肴に買い込んできた酒をしこたま飲みます。彼女は利尻から礼文島に行き旅人の間では数々の奇行を強要されることで有名なユースホステルに泊まり、そこから僕の北上したルートを逆に南下し富良野に至ったといいます。北海道で初めて自転車を買ったような人がここ数日間毎日100km以上自転車で走っているというから驚きです。しかし、このSちゃん酒を飲んだり飲ませたりする仕事をしていただけありハッキリ言って酒豪。なかなか飲み切れずしばらくバックの底に転がっていた焼酎もぺろりと流し込み、薄っぺらな寝袋にお構いなくマットも敷かずそのまま眠り込んでしまいました。自転車で旅をするのもこの人なら必然であったろう、と思った次第です。

 翌日は二人で富良野を観光しながら、また取り留めのない話を延々としていました。これからの冬北海道に留まるのか、それとも本州に戻るのか決めかねているSちゃんは少し不安そうにみえました。気温が下がり秋の深まりを感じると人はとても寂しくなります。異郷にいて、これからやってくる冬を思うととても気持ちが弱くなります。苫小牧から東京へ帰ることの決まっている僕は気楽なものです。しかし、すべてが未定のまま季節だけが進んで行くことに彼女が感じている不安はとてもよく分かりました。お互いが気持ちよく暮らせる場所を見つけられることを祈りつつ、彼女は北へ僕は南へとまた自転車を漕いでいきました。次はいつ会えるでしょうか。もしかしたらもう一生会えないかもしれません。しかし、あまりに黙々と移動し続けた北海道の旅で、彼女との会話はとても貴重なものでした。


霧の朝 山部

 いつまでも霧の立ち込める不思議な朝、ゆっくりと富良野平野を後に日高の山深い道を走ります。まるで岐阜の辺りでも走っているかのような山と木に囲まれた日高地方。今回は登ることのできなかった山々もここに沢山あります。日高は北海道のなかでも特別気になる場所のひとつです。やがて道は立派な沙流川の流れに沿って下り始めアイヌ文化で名高い二風谷に到着しました。しかし泊まろうと思っていたライダーハウスに行くとすでに営業期間は過ぎていて断られてしまい、北海道最後の夜もまた川原での野営となりました。翌朝はしっかりと冷え込み、ましてや川沿い、なかなか寝袋から出ることができません。関東育ちの僕には冬の足音がすでに聞こえてきました。

 もう苫小牧は目と鼻の先です。沙流川沿いに海まで出てそこからは次第に交通量の多くなってゆく海岸沿いの工業地帯を進みます。久しぶりに大量の排気ガスを吸い、今まで走っていた道の長閑さを懐かしく思い返しました。そして数時間ののち、あっけなく見覚えのある苫小牧の街に到着しました。夕方まで市場や街をふらふらとして、大洗行きのフェリーに乗り込んだところでぼくの北海道の旅が終わりました。

 一筆書きの線が交わって円を描いたというのに、何ともあっけない幕切れです。甲板から離れてゆく苫小牧港を眺めていると、どこか物足りない、そんな思いを抱きました。北海道という大地の胸を借り、そこで体力の限り遊ばせてもらいました。身体は疲れていても気持ちは物足りず、それでも夕方の鐘の音を聞くと妙に家に帰りたくなってしまうような、そんなどっち付かずの気持ちです。しかしそんなぼくにお構いなく、闇夜に浮かぶフェリーはゆらりゆらりと揺れながら、南へ、南へと進んで行くのでした。

 まとめるほどの旅ではないと思いますが日高を走っているときにあることを思ったので代わり書きたいと思います。短い期間だったけれど同じことを繰り返した末、唐突に雷に打たれたように、こう思えたことがぼくのささやかな達成感なのかもしれません。そして、こう思えたことがまた次なる旅への動機になってゆくのではないかと思うのです。


       山深い道が渓谷沿いに伸びて行く
       ぼくは自転車を漕ぎながら空を見上げた
       山と森に隠されて、空も一筋の道のように伸びていた
       空と山、その下に自転車と道とぼくがあった
       ただそれだけだった
       その簡潔さがまるで夢の中のようだった
       走ってきた道 登った山 見てきた風景
       そして今こうして自転車を漕いでいる自分自身も
       ほんとうはみんな夢の中の出来事じゃないだろうか
       ぼくはずっと夢のなかで足を回し続けていたんじゃないだろうか
       一体誰がこれを夢なんかじゃないと言えるのだろうか?



夢と浮世の狭間で

北海道・時計回り  おしまい


木曜日, 3月 15, 2007

北海道・時計まわり9

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。



 阿寒を後に帯広方面へ向かいます。最初の峠を越えた後はかなり長い下りと平坦な道をぐんぐん飛ばします。そしてあっという間に足寄に到着しました。ここから南下して帯広に寄るかどうか迷いながらも何となく都市に入るのが億劫になり、気持ちよく自転車で走れることを優先して人口密度の少ない北側ルートを取ることにしました。帯広の平野部に北から入ったところで景色ががらりと変わりました。広大な平野が南に向かって開け、目に入るのは畑か牧場、そして点在する防風林。北を向くとそのまま大雪山に連なってゆくであろう山々が見えました。あまりに長閑なせいか上士幌町に入ったところで急に眠くなり、夏には気球のお祭りが行われるという巨大なキャンプ場によろよろと滑り込みました。まだ昼過ぎだというのにワインをひと瓶開け、空を眺めながらの昼寝。疲労が溜まっていたのかまったく動く気がせずだらだらと飲んでは、ごろごろと横になり寝たり起きたりを繰り返します。あまりに眠いので、これは病気にでもなったのでは、と不安になりましたが特にそういう訳でもなかったようです。ただ昼間から飲み過ぎただけかもしれません。夢うつつに見た流れる雲とぽかぽかと暖かい日差し。とても気持ちの良い午後でした。


そう 眠たいのである

 翌日は狩勝峠越え。富良野と帯広を分ける大きな峠なだけに覚悟していましたが、意外にもあっさりと登りきりました。富士山のように何合目という標識があり、後どれくらい登ればいいのか分かるのは精神的に助かります。その後は富良野平野の南端まで続く下り坂。車と同じ速度で下り、少し富良野方面へ北上した山部にあるユーフレの里というキャンプ場に向かいました。明日はこのキャンプ場の後ろにある芦別岳に登ります。



水の流れをたどり

 ある北海道の登山本で厚い雪をまとった芦別岳北尾根の写真を見たことが、この山を選んだ理由です。うねうねと続く雪稜の彼方に綺麗な三角形をした芦別岳を捉えたその写真。冬に来ることがあるか分からないけれど、その時のために一度登っておこうと思いました。
登山道はキャンプ場の奥から始まります。沢を高巻くようにつけられた道を登ったり降りたりしながら進むので最初はなかなか高度が上がりません。しかし沢沿いの道はしっとりと濡れ山深さが心に染み入ります。そして次第に沢の水量が減り、急登をこなすと北尾根に飛び出しました。稜線付近ではすでに木々が紅葉し北海道の早い秋の深まりを感じさせます。そして南には写真で見たままに稜線が連なりその奥に綺麗な形をした芦別岳がそびえます。左には富良野平野、右には夕張方面の山々を望みながら誰もいない稜線を歩くと時おり赤とんぼが飛び立って行きました。もうすっかり秋なのです。小ピークが多いとスケール感を狂わせるのでしょうか、小さなアップダウンを繰り返すたびに芦別岳が面白いようにぐんぐんと近づいてきます。誰もいない稜線を一人黙々と歩くことの贅沢さを感じながら、最後の岩稜帯を登り山頂に到着しました。


芦別岳 実にナイスな山

 穏やかでとても静かでした。南方には夕張岳、そしてその向こうに無数の日高の山々が続いて行きます。しかし今回の旅ではこれが最後の山です。あとは苫小牧のフェリー乗り場へ向かってゆく道だけが残ります。これで山は終わりか、と少し寂しいような気がしました。小学生の頃、暗くなるまで遊び、ぼちぼち帰らなきゃという時によく感じていたような、何ともいえない切なさを思い出しました。そんな昔の感覚を思い出したことがうれしいような切ないような何とも言えない気分です。しばし山頂で物思いにふけったのち惜しむように山頂を後にしました。しかし、まだまだ北海道には訪れたい山が無数にあります。下山路を駆け下りながら、まだ帰ってもいないのにまたまとめて登りに来ようと考え始めていました。


芦別岳 とりあえず最後の山


あきがきて あきがゆき

日曜日, 3月 11, 2007

北海道・時計まわり8

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。



 内陸部に入り久しぶりに海のない風景の中を走ります。内陸部に入ってすぐに気づいたことはとにかく坂が多いということ。急勾配はなくとも緩やかなアップダウンが続くことで体力がじわじわと吸い取られ、午後3時を過ぎるととたんにペースが落ちてきます。この日は羅臼からの長丁場をこなし摩周の町に到着しました。曇天で今にも雨が降りそうな空と延々と続くアップダウンに気持ちが消耗しました。駅前でキャンプ場の場所を聞きそちらへ向かっていると何やら野営するにはもってこいの橋がありました。今夜から雨が降るというので屋根があるにこしたことはありません。次第に人里の中での野営技術の勘が鋭くなってきたようで、その橋の下のスペースにはテントが違和感なく溶け込んでいました(ぼくの気のせいでしょうか?)。橋の下から銭湯や買出しへ行き、そしてまた橋の下へ戻る。こういうことをしていても緊張感がないのは北海道の良いところです。


摩周 わたしの家


 夜半から降り出した雨が翌朝も降り続けます。今日は峠を一つ越えて阿寒まで行くつもりですが雨の中走るのは気が進みません。とりあえず本を読みます。大江健三郎著『レインツリーを聴く女たち』。雨が止むのを待ちながらレインツリーもなかろう、と思いますが、こちらは雨は雨でも慈悲の雨。雨が止んだ後も葉に溜め込んだ雨を滴らせるレインツリーのイメージと虚構・現実の混ざっりあったようなストーリーの中で根源的な魅力を発する女が絡み合い、絶望とそこから生まれる再生を描く話。しばし自分の状況を忘れ読みふけりました。読み終わりときには雲間から射す光が、となれば美しいのですが現実はそううまくはいきません。待つのは苦手なので快適な橋の下から雨の中へ飛び出しました。しばし平らな大地を走りやがて山間部へ吸い込まれて行きます。地図で確認するもどこが峠の頂点なのか分からず、とにかくカーブの向こうから次々と姿を現す登り坂と降りしきる雨に悪態をつきながら淡々と漕いで行きます。レインスーツの内部は汗でびっしょりと濡れ、着ていようが着ていまいが同じです。暑いようで寒く、寒いようで暑い、どこまで登るか分からない、体力的精神的にとても疲れた峠でした。しかし阿寒が近づくにつれ雲の隙間から光が射すようになり、阿寒湖のライダーハウスに着く頃に雨は止み明日の快晴を予感させるような夕焼けが広がりました。

 阿寒の名物ライダーハウス。一泊500円夕食付きという破格のこの宿のオーナーはまるで仙人のような柔和な笑顔と白い髯をもつアイヌの方でした。確かなお年は分かりませんがここ阿寒のアイヌコタンでは長老的な方です。しかしこの方よく酒を飲み、よくしゃべります。夜になると自ら夕食を調理し、色々なところから集まってきた旅人たちが一緒に夕食をいただきます。毎晩どこからともなく酒瓶が持ち込まれ僕のような始めての者や何度もやってきている顔なじみのリピーターが集まり、賑やかな宴となります。アイヌのこと、旅のこと、人生のこと。話題は尽きず、先に体力の方が尽きて酒の入ったコップを握ったままウトウトとしてしまいました。


雌阿寒岳へ

 しかし、二日酔いであろうがぼくの旅は続きます。まだ寝静まるライダーハウスから一番に這い出し雌阿寒岳を目指します。早朝のスキー場を登り、ひと山越えて下ったところが雌阿寒岳の登山口です。遠回りですが、海抜0mから自転車と自分の足で登るという原則を守るためバスは使えません。登山口から森を抜け、低木帯を抜けると月面さながらの風景が待っていました。そしてこの山に命の火が燻っていることを示す白い煙がもくもくと立ち昇って行きます。山頂から覗き込む火口はとても荒々しく崩れた岩肌とエメラルドグリーンの円形の池が不思議な対称を作っていました。地球の胎動が聞こえてきそうな生きのいい山に登り、下山後はその地球から湧き出た温泉で汗を流します。夜には羅臼で豪華な饗宴を共にしたバイク乗りのUさんもやってきて、酒を片手にお互いが好きな写真談義に花を咲かせました。

息吹く雌阿寒岳

 次に目指す山は富良野の芦別岳です。日程的にこれが最後の山になります。旅の終わりが見えてくるにつれて、旅の後のことをあれこれと考えるようになってきます。しかし、風を切って自転車で走り、一歩一歩無心に山に登っている間だけは、自分と行為の間に隙間がなくなり、何にも思い悩まず目の前に集中できます。そんな時間を惜しみながら、また一歩苫小牧へ近づいてゆきました。


雌阿寒岳山頂  / 雌阿寒のもりにて 


月曜日, 3月 05, 2007

北海道・時計まわり7

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。

風を避け、屈み込むとそこに

 

 朝起きると空は高曇り。どうやら羅臼岳も雲のなかへ隠れているようです。雨の日に登るのは気が進まないのでしばらくラジオの天気予報を聞きながら様子を見ます。空に晴れる兆しはありません。しかし天気予報ではこれから回復へ向かう模様。今にも雨が降りそうな空の下、半信半疑のまま歩き出しました。ここ知床と言えばやはり熊。出会いがしらに遭遇でもしたら洒落にならないので、意味のない声を上げたり、笛を吹いたりして歩きます。滅多に遭遇することはないだろうし、あれだけ騒がしく歩いていればどんな熊でも気づくでしょう。しかし、腰を下ろして休憩しているときなどはちょっとした物音にいちいちびびりました。羅臼山頂へは羅臼平で北側からのルートと合流しさらに頂上へ30分ほど岩の間を縫うように登ります。その羅臼平へ近づくにつれて天気はよくなるどころかどんどん悪くなってきます。雨が降り始め雲で視界も悪く風が次第に強くなってきます。そして羅臼平(太平洋側とオホーツク海側を分ける分水嶺の上)に出たとたん風が爆発しました。オホーツクから吹き込んでくる風がめまぐるしく方向を変えて、踊り狂っているような雲と真横に走る雨の帯しか見えません。雨粒と跳ね上げられる砂利が顔に当たり涙が出ます。はたして展望のないただ風雨に晒された山頂に登ったところで喜びがあるのだろうか?ただ往復してくるだけではもったいなくはないか?と出直す理由を探し始めます。そして、身体が冷えて気持ちが萎えてきたところで、何も言わずにくるりと山頂に背を向けて下り始めました。我ながらあっさりしています。明日に期待を託して、駆けるように下山ました。その日の午後遅くに空は晴れ渡り、買出しに出た羅臼の町からは雲ひとつかからないずんぐりとした羅臼岳の姿が見えました。明日は大いに期待できそうです。

コケと硫黄の親密な関係 泊場  / 近く、そして遠く 国後島 / 風と雲 羅臼岳山頂

 翌日は天気予報通りに晴れ渡り、昨日登ったばかりの道もまるで違ったものに見えます。硫黄泉が湧き異様な光景を見せる泊場、だめ押しの急登が始まる屏風岩を経てぐんぐん高度を上げ、振り返るとすぐそこに国後島が横たわっていました。しかし羅臼平に近づくにつれてまたしても雲がかかり不穏な天気です。しかし、前日ほどは悪くはならずウトロ側からは沢山の登山者が登ってきました。ぼくが昨日今日と登ってきた羅臼側からのルートは標高差が1500m近くあるので敬遠されているようです。岩の間を縫うように登り続けると最後には岩ばかりの山頂にたどりつきます。残念ながら展望はなく、オホーツク側から冷たい風が吹きすさんでいました。何はともあれ二日かけて登ることができた知床初のピークに、展望とは裏腹に気持ちは晴れ晴れとしていました。次来る時は雪のある季節になるのでしょう。その時は硫黄岳、知床岬も視野に入れもっと大きな山旅がしたいものです。

雲が降りてくる


 そしてこの夜、事件はキャンプ場で起きました。休暇を使って釣り旅をしている方が食いきれないから一緒に食べようと鮭、カラフト鱒、その他色々な魚を振舞ってくれたのです。関東からきた写真家を目指しているというUさん、映画の照明をやっているというダンディーなおじさんなどライダー連中も混ざり、食うわ呑むわの宴会となりました。石狩鍋、バターソテーにホイル焼き。この北海道ツーリングの常識を覆す一夜限りの大饗宴です。自転車乗りであること=誰よりも食べてよい、という公理に即して心行くまでいただきます。そしてしばらく腹を落ち着かせたのち、熊の湯の熱湯に浸かり星空を眺めるのです。登る・呑んで食べる・風呂に入って寝る。人生の黄金律ここにあり!素っ裸のまま夜空に叫びたくなるほどです。北海道に来て2週間半、ようやく秋の北海道の何たるか(人生の何たるか?)を見つけたような気がしました。

翌朝、酒としょうゆにひと晩漬けたいくらをいくら丼ならぬ、いくらにご飯をかけた丼にし惜しげもなく平らげました。昨夜の饗宴を共にしたライダーたちにウィスキーやら食べ物を餞別にいただきキャンプ場を後にします。穏やかな天気のした、手を伸ばせば届きそうなところに横たわる国後島を眺めながら上標津まで南下し、そこから内陸部へ向けて走りだしました。

稀な朝食