月曜日, 2月 26, 2007

北海道・時計まわり6

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。

 北方少数民族博物館が想像以上に充実し、キャンプ地を探す時間がなく網走郊外の公園という落ち着かないところで夜を明かしました。しかし次第に面の皮が厚くなってきたのか思いのほかよく眠ることができました。人々が起きだす前に早く立ち去ろうと思いながらも寝坊してしまい、急いでテントを畳んでいると、掃除のおばちゃんが良く眠れたかと聞き、犬の散歩に来たおじさんはゆっくりしていけと声を掛けてくれました。どの位走ってきてあとどのくらい走るんだ、なんてちょっとした会話が不思議と気持ちをポジティブにして、さて今日も走るかという気力が湧いてきました。
 
 まだ静かな網走の町を抜け、霧が立ち込める海沿いの道を走ります。この旅に出るまで北海道がこんなに霧の多いところだということは知りませんでした。毎朝必ずと言っていいほど霧が出て、かなり明るくなるまでそれが続きます。早朝霧の立ち込めた長い直線道路を走り、自分の息遣いと車輪の転がる音を聞いていると、時々戯れにこんなことを夢想しました。さっき起きて、朝食を取り、パッキングを済ませ、走り出したのは実は夢の中のことで、今こうして自転車を漕いでいることも夢なのだ、と。しかし、そんな霧の中の風景は太陽が高くなると瞬く間に文字通り霧消し、代わりに光に満ちた景色へと変わります。その頃には眠気も覚めて無心にペダルを漕いでいる自分がいました。


霞む朝

 斜里町に差し掛かると南の方角に素晴らしい造形美を見せる斜里岳が見えてきます。この山の登山道のひとつに旧道ルートというものがあり、その沢沿いのルートがとても素晴らしいと聞いていたので是非登りたかった山です。しかし、登山道から自転車に適した距離にキャンプ場がなかったことや林道の走行が長いこと、それと時間的な制約から今回はお預けです。斜里岳のよく見える野菜即売所で飽きるだけ山を眺めて、ついでに買った分の倍ぐらいの野菜をいただいて、斜里町を後にしました。

 一度内陸に入った道がまた海沿いの道に変わり陸と海のコンタクトラインをウトロへと続いてゆきます。とある沢を跨ぐ橋に差し掛かると観光で訪れた人々がしきりと下を流れる沢を覗き込んでいます。僕も自転車を降り同じように覗くとそこには無数の鮭が流れとは逆の方向へ泳いでいました。朝からやけに川のそばで釣りしている人がいるなぁ、と思っていましたが川に入った鮭を釣ることは禁じられているので、川に入る前の鮭を海で釣っていたというわけです。恥ずかしながらこういう光景を見たのは初めてで、打ち上げられた無数の死骸や、今にも流されそうになりながらいつまでも流れに逆らって泳いでいる鮭を見ていたら、自分は自然のサイクルのことなど何も知らないのだなぁ、と感じました。そういえばこれまで有機農業の手伝いを何度かしてはいましたが、どれも夏の間の数週間から一ヶ月。一度も春の始まりから秋の収穫、そして冬、とひと所へ留まって自然の移り代わりをじっくりと眺めたことがありません。さらに最近は季節労働をし移動してはまた移動の連続。それが辛いとは人が想像するほど思っていませんがそれでもやはり息切れがすることもあり、定住から生み出す何か、を常に探していることも確かです。その定住の地を探すためにあちこち行ったことのない場所へ旅をしている、これが僕の旅の目的なのでしょう。いつになったら卵を産みに来た鮭を見て、また次の年に同じ場所で同じように鮭の姿を眺めることができるのだろうか。種を植え、結んだ実を収穫し、冬に備え、また春からの準備をするような暮らしに到達できるのだろうか。眠れぬ夜にそんな自問を始めると限りない不安と遠い道のりへの絶望に苛まれます。しかし山に登り自然に身を置き、パートタイムでも畑の中に立ちそこで起こっている自然と人の営みを目撃すると、そんな自問は未来への希望や限りない楽観に彩られるものです。その希望と絶望の混ざり物が日々の自分を突き動かしているようにも感じます。朽ち果て目玉のなくなった死骸を眺めているとき、湧き出てくるのは自然の懐に自分もいるということの安心感でした。


ごくろうさま

 快晴のなか自転車はどんどん知床へ向かって転がってゆきます。漁師町ウトロからは今回のルートの難所である知床峠への登りです。途中、知床ビジターセンターに寄り、灯台を見に行きました。オホーツク海を知床岬へ向かう観光船が海に白い道を着けてゆきます。知床五湖は熊が出没しているようで立ち入り禁止でした。日本で人より熊が優先されているのを見るとちょっといい気分がします。観光客でごった返すビジターセンターでしばらく展示などを見ながら休憩し、気合を入れなおして峠への登りへ向かいました。
 

ウトロ灯台

 しかし、これまでの海岸の平坦な道にスポイルされたのか知床峠までの登りにはやられました。斜里の野菜即売所でいただいたカボチャが荷台の上に鎮座し、峠の反対側にあるキャンプサイトに酒はあるまい、としこたま買い込んだビールと焼酎が恨めしい。軽いギアに落としてひたすら足を回し、時折追い抜きざまに親指を立ててくれるライダーに慰められ、観光客で賑わう知床峠に着いたときにはすでに電池切れ状態でした。しかし、今夜のキャンプ地には熊の湯という無料露天風呂があるのです。道東の魅力はこの雄大な自然と温泉にあるといっても過言ではないでしょう。サドルに跨り脱力したままの僕を、勝手に坂を下ってゆく自転車が温泉まで連れて行ってくれました。峠は異界への入り口、苦から楽への分岐点なのです。

土曜日, 2月 17, 2007

北海道・時計まわり5

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。


稚内 朝


稚内の北防波堤で迎えた朝。濃い霧が町を包み、波止場の隅で寝ているとフェリーのオイルと潮の香りの混ざった匂いで目が覚めました。港町になじみのない僕はそんなことで妙にうれしくなり、霧のなかを彷徨って無闇にカメラのシャッターを押すのでした。利尻での休息が身体に溜まった疲労をすっかり落とし久しぶりに感じる身体の軽さに、これが休むということなんだなぁ、と妙に関心しました。休むことを忘れていたようです。

最北端・宗谷岬を通り、知床へ向かう旅の第二部の始まりです。太陽が輝きだすとみるみる霧が晴れて青い空と雄大な大地、北の海が広がります。静かな遠浅の海岸沿いをハイペースで走るとすぐに最北端の宗谷岬に着きました。軒を並べるみやげ物屋から演歌が流れ、次から次へとやってくる観光客に混じりとりあえず写真を一枚。この辺りの海水はとても澄んでいて美しかった。
 

遠浅の海 漁する人 / 最北端の犬


 さてこれからはオホーツク海沿いを南東に向かいます。しかし、地図で見れば明白ですがここから知床までは長い。地図上では緩やかに綺麗にカーブを描く滑り台のようなラインですが、もちろん走ればアップダウンあり、風ありは当たり前。とにかく左に海を見ながら走り続けるしかないようです。自転車というのは不思議なもので走り出すとなぜかムキになってしまい、妙にスピードを出したくなるし、遠くまで行きたくなるものです。ただそれは通勤とか近場のツーリングとかそういう場面でのことだと思ってました。でも、やはり場所が変わってもそういう基本姿勢というのは変わらないもので、稚内からの三日間はとにかく足を回し続けました。平均時速20km強で走り、午前に60km、午後に60km、さらにキャンプ場がいい場所にないときは見つかるまでさらに10~20km走りました。このサイクルが次第に快感になってくるとただ走るために走るというあまり健康的ではないものになってきます。しかし本人にとっては最高に気持ちの良いものなので、これはある種“中毒”と呼べるものかもしれません。風景が次から次へ展開してどこまでも走って行けそうで、そんな時間が続いてゆくことが単細胞になることを許さない現代社会ではとても貴重な時間です。


どこか忘れてしまった気持ちの良い道



しかし、そんなことをしていると体重を維持するのが困難で、たまにトイレの鏡でげっそりとした自分の顔を見てしばし白昼夢から目が覚めるのでした。そんな日は夕食をどっさり買い込んで眠気と戦いながら粗末な食事をこしらえます。残飯(いや、それは僕の翌日の朝食)を狙うキタキツネにからかわれることもしばしば。痛む尻を立ち漕ぎダンスでカバーし、向かい風が吹けば土下座するが如くハンドルに額を擦り付け、追い風が吹けば求愛する七面鳥のように自分をできるだけ広げ、ただ走るという至極の時を過ごしました。稚内-枝幸、枝幸-湧別、湧別-網走とコンスタントに三日間で走りました。網走では市街地を走っているときに利尻のキャンプ場で出会ったニューヨークから来た夫妻との偶然の再会がありました。自転車で移動しているのに何でここで会えるんだ、僕らは今日着いたばかりなのに、としきりと不思議がっていました。ちょっと急ぎ過ぎたようです。思い出そうとしてもコマ送り映像の海沿いの風景ぐらいしか出てきません。



どこか忘れてしまった気持ちの良い牛

 
 網走には一つの目的がありました。ここには北方少数民族博物館ジャッカ・ドフニというものがあります。日本を単一民族国家と言ってはばからない国粋主義者にはあまり興味のないであろう施設ですが、海外から帰ってくるたびに、あまりに民族的均一性を維持してる日本に、思わず居心地の悪さを感じてしまう僕にとってはとても重要で大切な観光学習施設でした。博物館は網走郊外の団地の一角にポツンとありました。大きな建物ではありませんが木造の平屋建てで入り口の大きな三角屋根がとても可愛らしい建物です。展示室に入ると、ところ狭しと北方少数民族の生活・宗教・狩猟にかかわるさまざまな民具が展示してあります。大きな樺太の地図があり、そこにはびっしりと日本語の地名が書いてありました。そう、ここは主に樺太に暮らしていたウイルタ、樺太アイヌなどの少数民族を紹介する場なのです。ジャッカ・ドフニとはウイルタ語で「大切なものを収める家」という意味です。ロシア・日本からの開拓、日露戦争、太平洋戦争、そしてその後の差別。そんな歴史に翻弄され、今では少数民族はほとんど姿を消してしまいました。ボランティアとして学芸員をしている方がそんな非情な歴史をこと細かく解説してくれました。カナダの西海岸がいかに西洋文化に飲み込まれて行ったか、ということに興味があり何冊か本を読んでいましたが、日本が少数民族をいかに飲み込み、戦時には自国兵として使いながら、戦後は他民族であるという理由でいかに黙殺してきたか、というストーリーには驚きと居心地の悪さを感じました。カナダ先住民に対するカナダ政府の対応と日本のそれには天地ほどの開きがあるようです。学芸員の方がおっしゃるには、樺太にはいくつかの数千人規模の民族が暮らしていたといいます。そんな民族が隣り合う民族と調和しながら自然の恵みを糧にして何千(何万?)年もの間、国と言うものを作らずに暮らしていた、と言います。近代になるまで樺太はずっと国ではなかったのです。今世界で起きていることからはまったく想像できない世界ではないでしょうか。日本・ロシア・アラスカ・カナダに囲まれた北方地域には豊かで厳しい自然があり、またそこに暮らす先住民と侵入者の悲劇的な歴史が詰まっています。そんな消え行く歴史・文化を留めよう作られたこの「大切なものを収める家」も財政的にはとても厳しい状況で、それはそのまま日本=単一民族国家という幻想の表れのような気がしました。少数民族たちが作り出し生活で使ってきたものを伝えるのは容易い、でも本当に困難でかつ最も大切なのは、彼らが育んできた心を伝えることです、と学芸員の方はおっしゃいました。その言葉を聴いたとき、彼らが使っていた民具にあふれる部屋の中が急に冷たく空虚なものに感じられ、失われた心を伝承することの困難さにいいようのない無力感を感じました。
 
 閉館時間を過ぎてもなお話は止まらず、お話のお礼を言って外に出たときにはもうすっかり日が暮れていました。朝からの走行と北方少数民族の激しい歴史に目が回り、網走の夜の街が幻想のようにしか思い出せません。街を走りぬけ真っ暗な海に出たところでキャンプ地を探すことをあきらめ、たまたま住宅街の中にあった公園にテントを張りそそくさと眠りに着きました。

木曜日, 2月 08, 2007

北海道・時計まわり4

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。お間違いなく。

利尻山。海に浮かぶ山と言っても過言ではないでしょう。そもそも利尻島そのものが大きな山のような島です。人は山を囲むように海岸線に沿って暮らしています。海を向くとすぐ背後には秀麗な利尻山があり、山を向けばすぐ後ろには美しい北の海が広がります。


利尻山北稜から / 利尻山北稜にて


前日の移動でこってりと疲労が溜まりつらい目覚めとなりました。しかし、天気は上々。レストしたいのは山々ですがとにかく歩きだします。しかし不思議なもので、歩きだすとと疲れが和らぎ、リズムが整ってくると初めて歩く山道に気持ちが高揚してくるのものです。高度が上がるにつれて眼下に海が広がってゆきます。風の音も聞こえないとても静かな朝です。礼文島や前日に走った本土の海岸線、その向こうに広がる大地までが手に取るように見えます。静寂とひんやりとした空気に包まれ、柔らかな朝日を受けた海の輝きにしばし心奪われました。

静かの海
 

9合目あたりから次第に富士山のような赤茶けた脆いガレ場になります。西から合流する沓形稜がスタイル良く切り立っています。踏み跡の浸食などで少々歩きづらい山道を登り続けると立派な山頂神社のある北峰にたどりつきました。最高地点の南峰は崩壊のため立ち入り禁止になっていましたが、それでは気がすまないので踏み跡を辿り南峰にも行きます。南峰から見た北峰は、海に浮かぶ山という表現そのままの風景でした。これまで登った山のどれにも似ていない特別な山に来たことを実感し、ここに来るために苫小牧から自分の足で移動してきたのかもしれない、という思いがよぎりました。バリエーションルートを登ったわけでも、吹雪の中苦労して登ったわけでもありません。でも山頂であんなに満ち足りた気持ちになったのは久しぶりなことでした。山と旅が与える喜びに浸り、山との出会いもまた一期一会なのだ、と独り思うのでした。


利尻山北峰 / 午後、雲が湧いた


利尻までの道のりと登山の強行軍がたたり、翌日は抜け殻のような状態でした。さすがに体調を崩しそうなので休みます。旅の面白いところなのですが、こうしてぽっかりと空いた時間にはそれなりのことがあるものです。コンビニに旅仕様の自転車が置いてあるので近づいてゆくと珍しく女の子の旅人でした。走り出すとわき目も振らず走りつづけますが、走らないと決めた日には積極的にわき目を振ります。こうして夕方のフェリーの時間までは兵庫から来たSちゃんとのんびりと過ごすことになりました。彼女は、旭川で自転車を買ったばかりであることや、このまま北海道で冬を越したい、と思っていることなど話してくれました。二人とも同年代で状況も同じように宙ぶらりんだったせいか、話は尽きませんでした。天気もよく、あちこちSちゃんとぶらぶらしながら利尻島の美しさを満喫しました。夕方、彼女にフェリー乗り場まで送られ、ひと時交わった線がまた離れて行きます。彼女は礼文島へ渡り、僕は稚内に戻り知床に向かうのです。もしタイミングがあったら富良野あたりで会おうと約束をし、名残り惜しいまま僕は島を離れました。たった三日間だけだったけれど、ここ利尻島では山と海の織り成す美しさ、良い出会いにに恵まれ、濃密な時間が流れました。フェリーが稚内へ向かうにつれ、西日に浮かぶ利尻山のシルエットがゆっくりと海の向こうに遠ざかってゆきます。北海道でもっとも美しいと思い、一番好きになった場所。きっとまた、今度は違う季節に訪れたいと思います。


       鴛泊 / 利尻よ、さようなら


 再び稚内へ

月曜日, 2月 05, 2007

北海道・時計まわり3

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。


神威岬


余市を後にし、小樽、石狩と走りやすいけれど単調な道路を飛ばします。天気は高曇りで石狩平野に入ったあたりで風が少し強くなってきました。このあたりは工業地帯なので自転車で走るには退屈なところです。そうやって少し退屈し始めると、休憩がてら路傍の野菜即売所に寄ることにしています。石狩のとある即売所に寄ったときのこと。店番をしているおばちゃんに飯でも食べて行け、とおにぎりとお茶をいただきました。そして、おばちゃんの自慢の息子の話となかなか嫁にいかない長女の話を聞かされるのです。おばちゃんの子供の年代と僕の年代が重なっていたので、自然と子の話がでるのでしょう。そんな我子と自転車で旅ををする見ず知らずの同世代の僕を見ておばちゃんは何を思うのでしょうか。いつだったか、自分の息子じゃないから僕のように旅をしたり、山をやったり、海外で働こうとしている若者をみると応援したくなる、みたいなことを友人の母親から言われたことがありました。それを聞いたとき、あなたのお母さんは大変なのよ、と言われたような気がして少し気持ちが萎えました。何か言いたそうなおばちゃんに”しょーもないですね、いい年して自転車旅行なんて”と自分で言っておきました。人にそれを言われると何だか悲しくなってしまうから、自分で先に言ったのです。即売所のおばちゃんは沢山の形の悪い野菜を僕に持たせ、気をつけて走りなさい、と送り出してくれました。

天気が崩れそうなので石狩から先、トンネルとアップダウンの多い雷電海岸を敬遠し、内陸のルートを取ることにしました。このあたりは米どころのせいかよく言えば平和、悪く言えば単調です。しかし単調であればあるほど自転車を漕ぐことに集中してしまうものです。とにかく漕ぎます。そして夕刻が近づく頃、浦臼という町の温泉とキャンプ場が合体したような施設があったのでそこに泊まりました。



浦臼町 鶴沼公園にて

翌日は、滝川町、雨竜町を通りつつ、暑寒別岳の北東を回り込むように再び海岸へ向けて下って行きます。ここは留萌本線と平行しており風情のある無人駅があります。かつて留萌港に石炭を運ぶために作られた鉄道なので、幾世代か前の人々の開拓魂を称える石碑などもありました。無人の駅舎の中には旅人のためのノートが置いてあり、鉄道ファンの老若男女がそれぞれの想いを綴っています。この路線すべての駅で下車することを目標に旅する者、駅舎で野宿しながら北海道すべての列車を乗らんとする者。折りたたみ自転車と鉄道を駆使して北海道を巡る者などなど。夏も終わり秋に入った北海道を移動していると、所々にあるこういったノートのお陰で、夏の間にこの大地を旅した人々の記憶の欠片を感じることができました。夏の熱気に乗り遅れたことが少し寂しいような気がします。でもその寂しさは、“侘しさ”というまたある意味心地良い感覚でもありました。




留萌本線 藤山駅 / 風に乗って北へ

距離はありましたが全体的に下りだったので早々と留萌に到着です。また海岸線に戻ってきました。ここには北海道旅行者には有名なライダーハウスがあります。なぜ有名かというと、旅人自主管理、無料の宿だからでしょうか。商店街の町おこしの一環として作られたので、商店街の中の一角にあり、一階はガレージのような駐輪場および台所になっており、二階は70人ぐらいは泊まれそうなだだっ広い部屋になっていました。管理人の兄さんに泊まりたい、というとちょっとした書類にサインし、それで手続き完了。居たければシーズンが終わるまでいれるのではないでしょうか。季節労働の口を見つけて、ここから通勤する人もいるそうです。管理人だと思っていた兄さんも実は旅人で、なぜか長居しちゃってるんですよね~、とぼやく旅人なのでした。夕刻になるとどこからともなくライダー、チャリダーが集結しにぎやかな夜になりました。真夏はもっと賑やかだったそうです。




日本海 / 天塩、嵐の前

留萌から稚内までは200kmほど延々と続く海岸線の道です。ここは実に北海道らしい雄大なエリアです。特に峠があるわけでもなければトンネルが多いわけではないのですが、この道程は体力的に厳しいものがありました。留萌から天塩までは無数のアップダウンがボディーブローのよう体力を吸い取り、天塩から稚内までは自転車の天敵・向かい風と雨の洗礼を受けました。ライダー憧れのオロロンラインと呼ばれる海岸線を一直線に貫く道路も、次々とやってくる雨雲と絶え間ない向かい風で北海道中最も厳しかった道として記憶されています。ガイドブック等でオロロンライン=一直線に伸びる道+緑の草原+青い空、と紹介されているのを見るたびに何だか違和感を感じてしまうほどです。色々な気象条件に晒されていることが自転車の良いところです。そのときの暑寒、苦楽という感覚が記憶に深く刻まれることはやはり体験として上質なものだと思います。でも、走っているときは風雨に罵声を浴びせたり、チキショーとやるせない呻き声を出したりと結構情けないものではあります。でも記憶とは便利にできているもので、そんなことはすぐに忘れてしまうのです。








利尻島に掛かる虹 / オロロンライン

そんな海岸線を天塩のライダーハウスで一泊し、二日間で漕ぎ抜きました。天気予報の晴天日に利尻岳を合わせるため、無理をして稚内から利尻島へ向かう最後のフェリーに滑り込みました。陸が荒れ模様なら海もまた同様、いやそれ以上でしょう。自転車以外の乗り物にめっぽう弱い僕は、なす術もなく疲労と激しい船酔いにやられてしまいました。利尻までの乗船時間が果てしなく長く感じられ、まるで自分がどろどろのヘドロになってしまったような気すらしました。しかし苫小牧から13日目。憧れの利尻に到達です。利尻島に着く頃には雨も止み、美しい夕日が明日の快晴を予感させました。






強風の野寒布岬 / 稚内から利尻島へ