土曜日, 2月 17, 2007

北海道・時計まわり5

注・2005年9月の記憶をのんびりと掘り起こしています。


稚内 朝


稚内の北防波堤で迎えた朝。濃い霧が町を包み、波止場の隅で寝ているとフェリーのオイルと潮の香りの混ざった匂いで目が覚めました。港町になじみのない僕はそんなことで妙にうれしくなり、霧のなかを彷徨って無闇にカメラのシャッターを押すのでした。利尻での休息が身体に溜まった疲労をすっかり落とし久しぶりに感じる身体の軽さに、これが休むということなんだなぁ、と妙に関心しました。休むことを忘れていたようです。

最北端・宗谷岬を通り、知床へ向かう旅の第二部の始まりです。太陽が輝きだすとみるみる霧が晴れて青い空と雄大な大地、北の海が広がります。静かな遠浅の海岸沿いをハイペースで走るとすぐに最北端の宗谷岬に着きました。軒を並べるみやげ物屋から演歌が流れ、次から次へとやってくる観光客に混じりとりあえず写真を一枚。この辺りの海水はとても澄んでいて美しかった。
 

遠浅の海 漁する人 / 最北端の犬


 さてこれからはオホーツク海沿いを南東に向かいます。しかし、地図で見れば明白ですがここから知床までは長い。地図上では緩やかに綺麗にカーブを描く滑り台のようなラインですが、もちろん走ればアップダウンあり、風ありは当たり前。とにかく左に海を見ながら走り続けるしかないようです。自転車というのは不思議なもので走り出すとなぜかムキになってしまい、妙にスピードを出したくなるし、遠くまで行きたくなるものです。ただそれは通勤とか近場のツーリングとかそういう場面でのことだと思ってました。でも、やはり場所が変わってもそういう基本姿勢というのは変わらないもので、稚内からの三日間はとにかく足を回し続けました。平均時速20km強で走り、午前に60km、午後に60km、さらにキャンプ場がいい場所にないときは見つかるまでさらに10~20km走りました。このサイクルが次第に快感になってくるとただ走るために走るというあまり健康的ではないものになってきます。しかし本人にとっては最高に気持ちの良いものなので、これはある種“中毒”と呼べるものかもしれません。風景が次から次へ展開してどこまでも走って行けそうで、そんな時間が続いてゆくことが単細胞になることを許さない現代社会ではとても貴重な時間です。


どこか忘れてしまった気持ちの良い道



しかし、そんなことをしていると体重を維持するのが困難で、たまにトイレの鏡でげっそりとした自分の顔を見てしばし白昼夢から目が覚めるのでした。そんな日は夕食をどっさり買い込んで眠気と戦いながら粗末な食事をこしらえます。残飯(いや、それは僕の翌日の朝食)を狙うキタキツネにからかわれることもしばしば。痛む尻を立ち漕ぎダンスでカバーし、向かい風が吹けば土下座するが如くハンドルに額を擦り付け、追い風が吹けば求愛する七面鳥のように自分をできるだけ広げ、ただ走るという至極の時を過ごしました。稚内-枝幸、枝幸-湧別、湧別-網走とコンスタントに三日間で走りました。網走では市街地を走っているときに利尻のキャンプ場で出会ったニューヨークから来た夫妻との偶然の再会がありました。自転車で移動しているのに何でここで会えるんだ、僕らは今日着いたばかりなのに、としきりと不思議がっていました。ちょっと急ぎ過ぎたようです。思い出そうとしてもコマ送り映像の海沿いの風景ぐらいしか出てきません。



どこか忘れてしまった気持ちの良い牛

 
 網走には一つの目的がありました。ここには北方少数民族博物館ジャッカ・ドフニというものがあります。日本を単一民族国家と言ってはばからない国粋主義者にはあまり興味のないであろう施設ですが、海外から帰ってくるたびに、あまりに民族的均一性を維持してる日本に、思わず居心地の悪さを感じてしまう僕にとってはとても重要で大切な観光学習施設でした。博物館は網走郊外の団地の一角にポツンとありました。大きな建物ではありませんが木造の平屋建てで入り口の大きな三角屋根がとても可愛らしい建物です。展示室に入ると、ところ狭しと北方少数民族の生活・宗教・狩猟にかかわるさまざまな民具が展示してあります。大きな樺太の地図があり、そこにはびっしりと日本語の地名が書いてありました。そう、ここは主に樺太に暮らしていたウイルタ、樺太アイヌなどの少数民族を紹介する場なのです。ジャッカ・ドフニとはウイルタ語で「大切なものを収める家」という意味です。ロシア・日本からの開拓、日露戦争、太平洋戦争、そしてその後の差別。そんな歴史に翻弄され、今では少数民族はほとんど姿を消してしまいました。ボランティアとして学芸員をしている方がそんな非情な歴史をこと細かく解説してくれました。カナダの西海岸がいかに西洋文化に飲み込まれて行ったか、ということに興味があり何冊か本を読んでいましたが、日本が少数民族をいかに飲み込み、戦時には自国兵として使いながら、戦後は他民族であるという理由でいかに黙殺してきたか、というストーリーには驚きと居心地の悪さを感じました。カナダ先住民に対するカナダ政府の対応と日本のそれには天地ほどの開きがあるようです。学芸員の方がおっしゃるには、樺太にはいくつかの数千人規模の民族が暮らしていたといいます。そんな民族が隣り合う民族と調和しながら自然の恵みを糧にして何千(何万?)年もの間、国と言うものを作らずに暮らしていた、と言います。近代になるまで樺太はずっと国ではなかったのです。今世界で起きていることからはまったく想像できない世界ではないでしょうか。日本・ロシア・アラスカ・カナダに囲まれた北方地域には豊かで厳しい自然があり、またそこに暮らす先住民と侵入者の悲劇的な歴史が詰まっています。そんな消え行く歴史・文化を留めよう作られたこの「大切なものを収める家」も財政的にはとても厳しい状況で、それはそのまま日本=単一民族国家という幻想の表れのような気がしました。少数民族たちが作り出し生活で使ってきたものを伝えるのは容易い、でも本当に困難でかつ最も大切なのは、彼らが育んできた心を伝えることです、と学芸員の方はおっしゃいました。その言葉を聴いたとき、彼らが使っていた民具にあふれる部屋の中が急に冷たく空虚なものに感じられ、失われた心を伝承することの困難さにいいようのない無力感を感じました。
 
 閉館時間を過ぎてもなお話は止まらず、お話のお礼を言って外に出たときにはもうすっかり日が暮れていました。朝からの走行と北方少数民族の激しい歴史に目が回り、網走の夜の街が幻想のようにしか思い出せません。街を走りぬけ真っ暗な海に出たところでキャンプ地を探すことをあきらめ、たまたま住宅街の中にあった公園にテントを張りそそくさと眠りに着きました。

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